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藤木 吾朗生 昭和16年卒 | |
「蛮カラだったあの頃」 僕が応援団に入団したのは昭和13年の5月頃であったと思う。 僕はラグビー部の誘いに軽い気持ちで学科、氏名を答えたが、 退部を申し出るのに、父、花菱アチャコが同行した。 当時東西随一の人気漫才師が千里山を訪れたハプニングに 学生達は大騒ぎとなり、何が何だか解らないうちに退部は 了解を得たようであった。 |
その後応援団入団のきっかけは忘れてしまったが、 専門部1年生のリーダーとなった。新入生で学校の事も よく解らないのに応援団のリーダーとして、講堂に集められた 生徒約300名を前に、学歌、応援歌、逍遙歌などを 一小節づつ上級生とともに壇上に上がり歌唱をリードした。 また、三三七拍子、二拍子、鯉の瀧登り、三一ちょう流れ、 南無妙法蓮華経を参考にした妙見拍子、泥鰌すくいなど、 先輩リーダーの振りを見て覚えたものだ。練習は厳しく 全員が一糸乱れることなく行われたのは気持ちのよいものだった。 その時の団長は犬伏正美〔商3)さんで精悍な風貌は 貫禄があった。翌14年の団長小松さんは背が高く男前で、 声量が豊かであったから逍遙歌をリードされる美声には 聞き惚れたものだった。 |
昭和13年だったか、野球リーグ戦で西京極球場での 立命戦では、立命館大応援団の「祇園囃子」は情緒があって 感心した。試合後、新京極の三嶋亭ですき焼きをご馳走になり、 團旗、千成瓢箪などを持って帰校するのに、新京阪電車 (現在の阪急)に乗る時になって誰からか「キセル」だぞと 聞かされた。電車が駅に到着するや否や、団員が改札口 目がけて縦一列で疾走し、切符は「後、後、、、、」と 駆け抜けるので、僕も遅れてはならじと「後、、、」と 逃げるように通過した。このことは今も強く印象に残っている。 |
昭和14年、堺大浜での第21回全国相撲大会の応援は凄かった。 学部からは、千成会の元会長片岡さん、上杉さんら錚々たる先輩が、 予科からも原田 憲団長が指揮棒をもって参加されていた。 相撲部が形勢不利になるや、先輩団員が黙っていない、 激励の声援が怒号に変わって荒れだし上杉さんなどは 一升瓶やコップなどを投げつけ、破片が応援席にも飛んで くるので危なく冷や冷やしながら応援したものだった。 観客は2万人も入っていたということだから学生相撲の人気も 大変なもので応援もエキサイトしたのだろう。 試合後負けた悔しさの鬱憤をはらすべく団長以下20名程が 心斎橋筋の周防町交差点で円陣を組んで応援をやり始め 交通整理のお巡りさんが駆けつける騒ぎをおこしてしまった。 |
昭和15年以降になると戦時体制が強化され応援団の 活躍する場がなくなった。やがて日米関係が険悪化し、 日中戦争は拡大混迷。太平洋戦争後の敗戦によって、 応援団の多くの先輩や同窓生の消息も途絶えがちで 現在に至っている。 応援団82年を迎え、いま来し方をふりかえって 我らが応援団の歴史を胆った先輩諸兄に感謝するとともに、 在りし日の青春の群像に深い感慨を覚える。 |